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カテゴリー「勉強会の復習」の記事

2017年7月21日 (金)

大阪7月の会のひふみともこ先生のお話(3)

【第2部】7月の歌斉唱

7月の歌は「たなばたさま」を皆様で合唱いたしました。


【第3部】ひふみともこ先生から書籍のご紹介 

6月に東大寺で創作狂言「大仏くらべ」が演じられました。その狂言の作者の大江孝子さんにご招待をいただきました。

奈良の男と、東大寺を訪れた鎌倉の男が、それぞれ自分の地元の大仏自慢を繰り広げるのですが、やがて互いの良さを認め合うというのがあらすじで、その絵本が発売になりましたので、紹介させていただきます。 

「大仏くらべ」の絵本につきましては↓をご覧ください。

http://aizuyaichi.or.jp/mews/1607/

「大仏くらべ」の絵本は東大寺大仏殿と東大寺ミュージアム、鎌倉・高徳院、新潟・会津八一記念館の3ヶ所で販売されています。一般の書店では販売されていないようです。

2017年7月19日 (水)

大阪7月の会のひふみともこ先生のお話(2)

今日は関東甲信、東海、近畿、中国地方が梅雨明けとなりました。暑い日々が続いていますが、皆様、お身体ご自愛ください。

それでは、先日の「大阪 ひふみのつどい」のひふみともこ先生のお話の続きを掲載させていただきます。

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自分の御霊の中に神様がいらっしゃると認識することで、自分の中にも霊的能力があると分かることでしょう。特別な能力のある人が特別な修行をして得られる能力なのではありません。御霊の中にある普通の力なのです。

何故、そういう霊的能力が人に備わっているのでしょうか?

人が判断に迷ったときや、悩んだ時に御霊に問いかけることで正しい道に戻していただくことができます。

この答えは必ずしも明確な言葉で示されるわけではありません。

迷えば迷うほど、人間心で判断するとかえって深みにはまり込んでしまうのです。例えば最近インターネットで芸能人の夫婦喧嘩が公開されていますが、感情的になればなるほど、他人への恨み、自分自身の執着が増幅されてゆくのが分かります。

こういう時は周りが見えなくなっていますし、神様のご意図が分からくなってしまっているのではないでしょうか。

人間の怒りは15秒しか続かないとも言われています。早く正しい道に戻れるように、いつも自分の御霊と対話することで、自分の中には正しい道が示されるのだと気づいてほしいものです。

自己実現も大事であると思いますが、自分の金銭欲や名誉欲のためではなく、人間的な使命を取り戻すことが最も重要です。実際、仕事や家事に追われていたりするとそういう時間がとれないことはあるでしょう。

特に若いうちはあれが欲しい、これを手に入れたいと思い、それが成長の原動力になる場合もあるのですが、歳を重ねるうちに、経験からそういうものは実はあまり大したものではないと分かってきます。人間の成長というのは、魂の成長でもあります。私利私欲のための使う時間を減らすことで、魂の成長への時間が取れるようになるのです。

多くの人は目に見える「霊能力」をもてはやしますが、内なる霊的能力や神様という事を話すと、とたんにおかしなものを見るような眼でみたり、馬鹿にしたりします。しかし、このところ、科学的にも心と身体の関係は注目されており、村上和雄先生の「笑い」が遺伝子を目覚めさせるというお話や、大阪でも「大阪国際がんセンター」が「笑い」ががんに効くという実証実験を始めているという事ですが、「祈り」にも同じ力があると思います。

せっかく「霊力」を持っていても、一旦何かの権力や、お金を手に入れるとそれを失いたくない、という思いが強くなり、道を踏み外し、ついにはその力を無くしてしまいます。出会いもそれにつれて悪い縁がどんどん増えていって、最後には悪い人たちにいいように利用されて破滅してしまう、という事になります。

先日、残念ながら止まってしまいましたが、将棋の藤井翔太4段の29連勝が話題になりました。ご本人の素質はもちろんの事でしょうが、ひとつにはまだお若いのでお金のためとか、失うものが無いことによる「邪念」が無かったからではないでしょうか。

他人より優れた能力があれば、それを感謝し、いい方向に使わなければ退廃への道を歩むことになるのです。

せっかく神様が与えてくださった環境を否定して、人間心でわざと苦労するというのも正しい道ではありません。生活に困らない様な環境であるにもかかわらず、いやいやながら、わざと質素な食生活をしたとしても、それは逆効果です。また、毎日美食を続けるというのも同じです。身体が本当に欲している、喜ぶものが分かり、それを食べるようにすれば健康であり続けることができます。

「正しいもの」を正しく見分けられるように、清い魂にしておかなくてはなりません。正しい希望が自然と持てるように、分かるようになるには、常に感謝し、謙虚でなければなりません。

そうすれば色々な苦労や災難にあったとしても、自分自ら神様からいただいている答えを正確に理解し、実践しなければなりません。それを繰り返すことで、本当の「霊的能力」を手に入れることができるのです。

自分で求めず、考えす、他人に答えを求める人は、自分に都合のいい答えを求めて色々なところを渡り歩きます。そして他人にすがり縋り続けることになります。すがることも一つの執着になります。

外に答えを求めるのではなく、自分自身の中の「神様」に答えを見つけだせることが、本当の「霊的能力」なのです。その力を「畏れよ」とありますが、怖がりなさいという意味ではありません。謙虚に自分を謹んで、しかし自分からそれを求めてゆく、近づいてゆく努力をしなければなりません。

その力をもっと欲しいというのは邪欲です。しかし、その力に近づく努力も必要です。今、生きていることを尊び、感謝しながら自分の中の霊性に目覚めてください。

 

2017年7月17日 (月)

大阪7月の会のひふみともこ先生のお話

皆様

今日は東京でも35度を超え、今年初の「猛暑日」となりました。一方、ゲリラ豪雨や雷雨も地方によっては被害が発生しています。
皆様にはご平安にてお過ごしされますよう、お祈りいたします。

さて、大変遅くなりましたが、7月8日の「大阪 ひふみのつどい」でのひふみともこ先生のお話の要約が出来ましたので、数回に分けて掲載させていただきます。
大阪の会のイメージ写真を載せよう、載せようと思いながら、いつも忘れてしまっています。次回は忘れないようにどなたかにお願いしようと思います・・・・・

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平成2978日 大阪ひふみのつどいの要約

本日も九州地方で大雨が原因の災害が続いています。これ以上の被害がありませんように、難儀に会われた皆様の一日も早いご回復をお祈りしております。

【第1部】 霊的能力について

霊能力者というとスプーンを曲げるとか、一般の人には見えない色々なものが見える、聞こえるという特別な人を想像されるかもしれませんが、本日はそのような特別な力ではない、人ならば皆が持っている「霊的能力」についてお話をさせていただきます。

この神様からのお言葉ですが、いつも本題に入る前に、この部分を読むにあたっての心構えや神様の想いというものが初めの56行に書かれています。

人間は私利私欲ではない高い望みを持ち、それに向かって進んでいかなければなりません。それを行うにあたり、神様の願いを実現するのだという思いをもって進めば、何も心配したり、疑問に思ったりする必要はありません。神様が全てお導きくださいます。

ただ、「素直に自分の置かれた状況を受け入れる」ということは言葉通りにとらえて、いつもその状況を甘受する、という事ではありませんので、注意が必要です。

物事が進まなくても努力をせずに「神様のご意図なので仕方がない」とあきらめたり、「棚から牡丹餅」という言葉がありますが、宝くじが当たるように物質的な利益を得た場合に、「神様のご意図なので何をしてもいいのだ」と勝手に解釈してしまう。人間はこのように誰かのせいにすることで、自分の責任を回避しがちです。

今やっていることが神様のご意図に沿うものなのかどうなのか、自分に起こっている出来事は神様がどういうご意図で起こしてくださっているのか、それを正しく見極めることが必要です。自分の望みが私利私欲なのか、神様のご意図に沿ったものなのか、それを理解すること、そこでの自分の行いが正しいかどうかを常に求めてゆくことで、自分の魂が磨かれていくのです。

どうすれば霊感が持てるのだろう、と思う人は多いでしょう。しかし、それは単なる低俗な好奇心なのです。例え何かが見えたり、写真に写ったりしたとしても、それを周りに吹聴することで、かえって低俗な邪霊に使われる存在になってしまいます。

今回の神様のお言葉はそのような好奇心に応えるためのものではないと、初めに神様はおっしゃっています。

 

人という存在は本来は神様の「分け御霊」をいただいていますので、もともとすべての人が霊的な能力を持っています。

以前、東京の湯島天満宮の権禰宜の小野様がお話になられていましたが、「人は皆、神様の魂を持っています。しかしすぐにそれは穢れてしまうのです。毎日、「大祓の言葉」を奏上しているとそれが清められ、心の穢れを防ぐことができます。2年間も上げていると覚えられます。」との事でした。

私が気仙沼で慰霊をするときに、ご一緒に来て下さる岩手県県庁の方は10年以上、出羽三山で修験道の修行をされていますが、慰霊の前に祓の言葉を上げられています。

「神から人へ」「神誥記」の神様からのお言葉を読んでいただいても同じ効果があると考えています。

2017年6月 3日 (土)

大阪5月の会のひふみ先生のお話の要約(3)

大阪5月の会のひふみ先生のお話の要約(3)

宇宙の中で地球は地球の役割があるのだと思います。そして宇宙の調和の一端を担っています。宇宙全体が一つの生命体です。自分はその一部であり、自分がどのように生きていくと宇宙の調和に役立つのか、それを考えて生きなくてはなりません。それにより、すがすがしい神様の「気」を受け取ることができます。
受け取った「気」というのは、それをまた他の人のために使うものです。それを惜しがって自分の内部にため込んでいくと、執着などで気が穢れていきます。「気」を他者に分け与えること、小さいことでも他者を利する、それを行う事が非常に大事なのです。
その行いが祈りであり、祝詞なのです。そういうことを行うのだという事を神社で神様に宣言するのが祝詞なのです。

純粋無垢な心で神社にお参りし、祝詞を唱えることで神様は「気」を預けてくださいます。その「気」は自分がもらったものではありませんので、ため込むものではありません。必要な時に、必要なところに使うためのものなのです。
初めにも申し上げましたが、物事が自分の思い通りにいかなかったとしても、それで人を恨んだり、呪ったりしてはいけません。かえって自分の魂を汚すことになります。
この世の中に生まれてくることも人間心では自分の意志ではないように思えます。(もっとも前世で決めてきているとも言われてはいますが)100%自分の意志で決められることはほんのごく一部です。そして過去の行いの中で決められた今世の自分がある、ということです。

「いろは」は神から人へ、「ひふみ」は人から神への祈りだと言われています。
その循環が「いろは」「ひふみ」に表わされれています。言霊が循環して、「いろは」を発することで神様の祈りが自分の中に入ってくる、「ひふみ」で自分の祈りを神様に届ける、という循環なのです。
万葉集のように千年以上も前の言葉が今読んでも分かる、これはすばらしいことです。その言霊がことばの中に受け継がれており、世代を超えてつながっている。そこには言霊があり、その言霊を発することで人類は何万年も祝詞を唱え続けているという事なのです。

人の祈り、言霊を聞く事で神様もまた力を得られ、そのお力を人に分けていただけるのです。
言霊の力をいただくためにも「いろは」「ひふみ」はぜひ声を出して奏上してください。

(終わりです)

2017年5月30日 (火)

大阪5月の会のひふみ先生のお話の要約(2)

努力している人を見ていると誰かが何とかしてあげたいと思っているでしょうし、その人が本当に頑張っているのでしたら損得勘定抜きで助けてくれる人が出てくるものです。

「ことばに表し」とありますが、これは言葉で繕いなさいという事ではありません。
思っていることが言葉に現れるのです。その人の日頃の思い、行い、人との接し方、生き方。
そういうものが発する言葉に現れてきます。
「先の先まで」という部分ですが、先ばかり見て今をおろそかにしてはいけません。もちろん、先の事を考えずに「アリとキリギリス」にでてくるキリギリスのように今を享楽的に楽しむという事でもありません。やみくもに先を心配するではなく、今をしっかり行動して、後は神様にお任せしなさいという事なのです。
現在の人類はとにかく人間中心です。霊的視点というのも難しいのですが、自分は地球とか宇宙とかとつながっていると考える事が、結果的には霊的視点につながるということになるものなのです。

先日も訪問した気仙沼での話になりますが、現在、「かさ上げ」という事で近くの小山や丘を崩して津波の高さよりも土地を高くしよう、という事が行われています。ただ、山の養分が川を伝わって海に流れ、それを魚が食べ、それを人が、という連鎖が断ち切られてしまう危惧を感じています。
また、この世で終わりというのではなく、臨死体験をした方のお話を聞きますと、あの世とこの世は隣り合っているものだと感じます。人間は死んだら終わり、ではありません。物質的に生きている、肉体的に生きている、と言うだけではなく、全ての魂は魂の世界とつながっています。この世の中で経験したことはそのままあの世にもっていけるものです。
証明のしようはないのですが、理屈では説明でいない事はいくらでもあります。これまでに紹介しましたように、震災後に不思議なことはいくらでも起こっていたのです。

人々は神社へ「お願い」に行くのですが、神社は本来人の願いを聞いてもらうための場所ではありません。
人というものは神様の「分け御霊」をいただいているもので、それが真の使命に目覚めるための場所なのです。人が神様の「分け御霊」であるという事を認識し、神様に約束をささげるための場なのです。
そこで「自分はこう生きます」ということをお約束するのが「祝詞」です。「神様が願われているように生きていきます。生きていかせてください。」というのが祈りの本質なのです。

(続きます)

2017年5月28日 (日)

大阪5月の会のひふみ先生のお話の要約(1)

皆様

今回も無事にベトナムから戻ることが出来ました。一週間しか日本から離れていないのですが、ベトナムの雑踏(特に人とバイクの多さと車10秒おきに聞こえる車のクラクション)の中で過ごしていると、都会の真ん中でさえ、日本がいかに静かであるかという事が再認識されます。
まあ、老いのせいで、そういう勢いについていけなくなっているだけかもしれませんが。

さて、大変遅くなりましたが、5月13日の大阪 ひふみのつどいでのひふみともこ先生のお話の要約ができましたので、掲載させていただきます。
(ひふみ先生からは、だいぶ前にいただいていたのですが、私がバタバタしていて掲載が遅れました。申し訳ありません。)

当日の教材は「神社でいろは・ひふみを奏上することについて」でした。

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神社で「いろは」「ひふみ」を奏上することについて

 いつもつどいの最初に「いろは祝詞」「ひふみ祝詞」を奏上していますが、今回は「いろは」「ひふみ」の意味について考えてみたいと思います。
 皆様もこれまでの半生を振り返ってみていただければ、思うようにいったことも、また、そうでない事もあったと思います。私の現在も、私がこうなりたいと思っただけでは決してこのようにはなっていなくて、ここに至るには多くの人々との出会いとか、神様のお導きがあったと考えています。

 日本語教師になりたいと思ったのは20代の時でした。

 

30代の時に恩師と出会いましたが、その先生は私が日本語教師の研修を受けていた時に講師としていらっしゃった方でした。その時に質問に行ったのがご縁の始まりでした。

 

その後、日本語学校に勤めだしたのですが、当時は「日本語を教える」ことはまだきちんとしたビジネスとして成立しておらず、このままではまっとうに日本語を教えられるようにはならないと思い、国立国語研究所に移りました。しかしその研修の初日にやはり大学院を出なければだめですよ、と言われ、当時、一緒に勉強していた方が大学院に合格したことにも触発され、自分も大学院を目指すようになりました。

 

修士課程に入ったのですが、そこでも修士で勉強しているだけではだめだという事で、その恩師からも博士課程での勉強を進められました。しかし、御茶ノ水大学で博士論文の目途がついた時に、筑波大学で講師の公募があり、そちらへの転身を進められました。

 振り返ってみますと、大学院合格から約10年かかっていますが、そのなかでの恩師との出会い、恩師の奥様との出会い、博士論文を書くために助力してくれた方々など、色々な巡りあわせが積み重なって今に導かれています。

 

これらは偶然というよりも「自分の意志ではない」という表現が正しいのではないかと思います。努力は努力として行い、しかい結果は神様にお任せしなさいという事です。自分がこうだと思ったことが出来なくても、それは決して失敗ではないのです。

 

例えば受験に失敗して、道を変更する場合もあると思います。私も大学院受験に失敗もしましたが、当時は神様の事などには思いをはせることもできず、自分が頑張ったと思っていました。現在は自分がその結果を神様のお仕組みとして、受け入れることが必要ではないかと思います。

(続きます)

2017年4月 6日 (木)

大阪3月の会のひふみともこ先生のお話(続き)

大阪3月の会のひふみともこ先生のお話(続き)

2部 仰げば尊し

今回から日本の心を思い起こすために、唱歌を歌う事にしました。第1回は「仰げば尊し」でした。

3部 ひふみ先生からのお話

東洋経済オンラインの豊島岡女子学園中学校・高等学校での毎日の「運針」の記事のご紹介がありました。

http://toyokeizai.net/articles/-/156008

毎日たった5分の運針ですが、無心で集中することが精神面を鍛えることにつながっているのでしょう。人の人生もそのように、無心に徳を積みあげていくものなのでしょう。一針一針は一見、変わらないように見えても一日一日の進歩の積み重ねは決して無駄ではありません。ただ、ひたすら針と糸で縫い、終わったら糸を抜いてしまうと何も残らないように見えます。しかし形に残らないものが魂の中に残るのです。それが魂を磨くことにつながり、進学実績につながっているのかもしれません。

2017年4月 3日 (月)

大阪3月の会のひふみともこ先生のお話(続き)

大阪3月の会のひふみともこ先生のお話(続き)

昨日、テレビをみていると出雲大社の式年遷宮の話が出ていました。お宮の柱となる材木は樹齢200年以上のものが必要だという事です。それを見ていた外国の人たちが、日本人が何年も先の遷宮の事を考えて植林をしている、という事に驚いていました。また、宮大工の技術にしても一本も釘を使わないなどその技術は今に伝承されています。

西岡常一さんという「最後の宮大工」と呼ばれた方がおられましたが、法隆寺や薬師寺の補修や再建に携わった時に、この部分はどこのヒノキで作るべき、等口伝に基いた教えを忠実に守ってきたとお話されていました。また

食の料理人の土井善晴さんがおっしゃっていましたが、和食は素材の良さを活かして素材に感謝する、それが精神だという事です。一方、洋食は「私が作ったんだ」と主張しているように感じられます。

生きとし生けるものの命を活かす、それが日本の心ではないでしょうか。

この世の中には完全なものはありません。不完全なものが補いあって完全無欠なものができあがります。人についても、一人一人の間に優劣、上下はありません。神様の前では全員が平等であり、公平なのです。自分は優秀である、という思いのある人は、神様から見ればまだまだ昇華が足りないということなのです。

悟りは「差をとること」と言われます。勝ったと驕り高ぶるだけではなく、負けている、差がある、と感じることもまだまだ悟っていないという事です。神様はその「差」が全く無くなってゆく、神様の思いのもとにすべてが収束してゆく、という事を望んでおられます。役割、お役目という意味では、全ての人が尊い役割を持っているのです。他の事に目がくらんだり、煩悩に悩んでしまうこともままありますが、自分に与えられた使命をただひたすらに行っていくことが結局は自分の幸せにもつながります。魂が磨かれると、人間はささやかなことでも幸せになれるのです。

先日、311日に気仙沼を訪問した際に、慰霊祭に参列させていただきました。

遺族代表の方のお話で、息子さん一人を除き、ご家族が全て亡くなったそうです。津波が来た時に橋の欄干につかまって必死で耐え、やっと橋にあがって、一晩過ごしたそうです。寒さに耐え、眠らないように大声で家族の名前を呼び続けたという事でした。今になって自分の幸せは何気ない家族との会話にあった、それを失って初めて分かったというお話をされました。しかし、それに気づいて今が幸せですとおっしゃておられました。

大きな悲しみを乗り越えることで、神様のご意図を理解されたのではないでしょうか。6年間は長かったでしょうし、さぞ辛かったことでしょう。それを乗り越えて、次の一歩が踏み出せるようになられたのだと思います。

幸せというものは「今の状態が幸せである」という事に気づくことから始まるものです。私たちの生活も、これまで苦労されてきた人々の努力、苦労、支えの上に成り立っているという事に気づかなければなりません。桜が咲いているのを見れば心が明るくなりますし、晴れた日はそれだけで心がウキウキします。一方、雨は雨で作物が育ちます。すべてに意味があり、感謝すべきことなのです。

人間も同じです。ニコニコしている人を見ていやになる人はいません。いつも、何にでも感謝をして過ごしたいものです。一人一人が我執我欲に囚われてバラバラに生きていくことを神様は望んでおられません。人類が和して一つになることを望んでおられます。

 

宗教も同じように人類の昇華を考えているものでしたら、一つになるはずなのですが、実際はそうではありません。分裂や征服を繰り返しています。皆の魂の中に神様がいらっしゃる、魂は神様につながっている、それに気がつくことで神様との一体化を果たすことができます。それが人の和につながり、さらなる高次元の魂となる事ができます。魂は神様からお借りしているものです。それを磨いて、光り輝く魂にして、神様に返してほしい、それが神様の願いです。

 

順風満帆の生活で、毎日おいしいものを食べて満足していられるかというと、人生はそんなに楽なものではありません。陰には他人には分からない苦労があるのが普通です。しかし、それは神様とのご縁を結ぶためのお仕組みなのです。ただ、神様のお考えを理解するのはそう簡単な事ではありません。

先の気仙沼の方のご経験は、とても辛いものであったでしょう。それから目をそらさないで、逃げないで一つずつ答えを見つけてゆく、それが大切です。それが見つかった時に神様の世界に近づいて行くことができるのです。自ら考えて本当の答えを見つけてゆかなければなりません。

死ぬときに自分の人生はこのような意義があったのだ、いい人生であったのだという事が分かって死ねることが大切でしょう。小さい事ではありますが、周りに感謝し、にっこりと笑って言葉をかけることからはじめましょう。

2017年4月 1日 (土)

大阪3月の会のひふみともこ先生のお話

皆様

大変遅くなりましたが、3月19日の大阪 ひふみのつどいでのひふみともこ先生のお話のまとめが終わりましたので、掲載させていただきます。

はじめに 「市販本 新版 新しい歴史教科書」の紹介について

皆様、連休のお忙しいところ、お集まりいただきましてありがとうございます。今日は「ひふみのつどい」に先立ちまして、「新しい歴史教科書」について簡単にお話をさせていただこうと思います。

これまでは自虐史感に囚われた教科書が多かったようですが、実際は日本の歴史は世界に誇れる立派な歴史であり、次世代に正しい歴史を伝えていただきたい、と考えています。

戦争に関してもただ、日本は悪いことをした、というのではなく、その土地への貢献も行ってきた、そういうことについても伝えていきたいと考えています。この教科書は昨年文部科学省の検定にも通り、これから採択してゆく学校も増えると思います。

私もこの教科書を作る会を支援したいと思い、会員になりました。できる限り紹介をして広げてゆきたいと思っています。

(市販本 新版 新しい歴史教科書についてはこちらをご参照ください)

https://www.amazon.co.jp/%E5%B8%82%E8%B2%A9%E6%9C%AC-%E6%96%B0%E7%89%88-%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8-%E6%9D%89%E5%8E%9F-%E8%AA%A0%E5%9B%9B%E9%83%8E/dp/4915237834

1部 平成17118日「神の世界の一元化とは」について

人間の進歩は地球の進化とともにありました。しかし、人は神様からいただいたみ霊を、この世の中で生きてゆくことで汚してしまいます。その穢れを祓うことについて、神様は自分で何かをされるわけではありません。人間一人一人が少しずつでも浄化し、昇華していく事を望んでおられます。

今の人間を見ていると、経済的な発展という言葉のもとに、自然や社会を汚染しています。

人間だけが資源を乱伐、乱用して良いものではありません。

神様は人類の歴史を通して、何万年も自然とともに生きる、調和する、そういう世界を実現しようとしておられます。地球や自然を破壊しているのは人間ですので、このまま失敗すれば後はない、だから一人一人が目覚めなさい、とおっしゃっていることを認識すべきです。

地上から空を見ていますと、宇宙は遠いな、と考えてしまいがちですが、私たち自身が宇宙の一部なのです。身近な自然と宇宙は同じものなのです。自然を破壊するという事は、宇宙を破壊しているという事なのです。

今月は東日本大震災6年目でしたが、現在、被災地では「かさ上げ」というものが行われています。震災で水が来た高さまで土を盛って、防潮堤を作っています。陸前高田では小高い山が切り崩され、その土が「かさ上げ」に使われました。

人間は自然と和すことで、天災を乗り越えてきましたし、自然と共存してきました。

それがいつしか先人の教えを無視して、海の方へ活動範囲を広げてきた、その部分が今回の震災で津波の被害にあってしまったのです。

その後の復興状況を見ていても、新興住宅が次々とできています。これがまた同じような形の家が並んでいるのです。これらを見た人々がはたして同じ土地に「故郷」を感じるか、というとそれは微妙ではないかと思います。

このようにすべてが「同じ」であることは、「一体である」ということだと言えるのでしょうか。これが行政の方針で進めているのだとなると、心を失ったただの自然破壊に見えてしまうのです。(続きます)

2016年12月 9日 (金)

大阪11月の会のひふみ先生のお話(2)

皆様

前回に引き続きまして、大阪11月の会でのひふみともこ先生のお話の要約を掲載させていただきます。
テーマは「神様のお名前について」で、内容につきましては
http://hifumitomoko.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-ba5c.html
となります。

平成17年(2005年)10月16日 神様のお名前について

 

神様のお名前というものは、私はあまり気にしていないのですが、ある人からは自分の名前を言わないなんて失礼だ、と言われたことがあり、びっくりしました。
神様にはお名前はありません。また、神様のおられる世界には時間も空間もないそうです。臨死体験をされた方のお話を伺うと、気になる人の事に意識を飛ばすと、すぐにその場に行くことができるそうです。神様も同じで、すべての場所におられます。神様は物質ではありませんので、肉体を持つ私たちには想像できないのですが、どこにでも現れておられます。お隣の御堂筋に生えている銀杏の木にも、そこにいる虫にも神様は満ちています。しかし、それぞれの個体の中にバラバラにいらっしゃるのではなく、全てのものにつながっているのでお名前はないのです。イチョウの葉の一枚、虫の一匹にも神様のすべてが含まれています。
人が神様の名前だと言っているのは、その役割に名前を付けているだけで、それは神様の名前ではないということなのでしょうか。

 

しかし人間は名前で物を区別する生き物ですので、ついつい名前を付けて区別したり、差をつけてしまいます。それは方便ですので仕方がないのかもしれませんが、神様に名前を付けてその差をつけようとするのは、それは間違いです。虫一匹の命と人間ひとりの命が同じであるかどうかは難しいところですが、日本人の感性として「やれ打つな 蝿が手をする 足をする」という句にもあるようにその中にも一つの命としての「あはれ」を見ることは大事にしなければなりません。何のためらいもなく、害虫といえば殺虫剤で皆殺しするというような外国とは一線を画しています。

 

名前を付けることは方便なのですが、それで神様に、例えばどちらの宗教がえらいなどと言って、差をつけようとするのは人間の欲なのです。神様には空間がないので、どこででも拝めるのですが、人間には神棚とか仏壇とかがあった方が拝みやすいという事もひとつの方便としてあり得ることだと考えています。
人間の損得勘定で神様のお名前を勝手につけ、人の勝手に利用することこそ、神様のご意図に沿わない事なのです。

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